あたしが望月アカネに会ったことがあるって言ったらみんな驚くよね、普通。 だから誰にも言えないし、言う気もない。誰にも内緒のここだけのハナシ。
あの頃あたしは中学一年で、いちばん芸能界に敏感な頃で、テレビの中で望月アカネを見たのもそんな頃だった。 激しい中学受験戦争を乗り越え、どうにか都内の志望校に入ったあたしは、無理して入学したせいか勉強にも周りの環境にもついていけなくて、途方に暮れていた。 友達はいたけど、誰一人信用できなかったんだ。だってあたしの前では微笑んでいても、陰では何を言われているか分かったもんじゃないし。表面上の付き合い。心を許すと後が悲しいから、虚勢を張ってあたしは一人でも大丈夫だって信じていた。 それでもさ、寂しくてたまらないことってあるんだよね。
家に帰ったらお母さんと喧嘩ばっかりだった。お母さんに言われるままに頑張って頑張って死ぬほど頑張って有名中学に入ったけれど、あたしの成績がよくないせいでお母さんはいつも機嫌が悪い。 電車通学のあたしはいつも帰りの電車の中で帰りたくないって思っていた。帰ったらまたお母さんに小言を言われるかもしれない。鞄を勝手に開けられるのかもしれない。でもあたしはもうお母さんの言いなりなんて嫌だったんだ。 反抗期だったんだと思う。お母さんの言うことさえ聞くのはもううんざりで悔しかった。あたしはお母さんがいなくてもちゃんとひとりで出来ると思いたいのに、まだあたしは十二歳の子供で、大人になりたいのに大人になれなくて、子供でいるには歳をとりすぎていた。だからいつも矛盾のなかで苦しめられていた。 あるときは「まだ子供なんだから」と言われ、あるときには「もう大人なんだから」と求められる。あたしはそんなに器用じゃないのに、時と場合によって人格を変えられるほど長く生きていないのに。 学校にも家にも居場所がなくて、いつの間にかあたしは生きる意味さえ失っていた。 小学校の頃は中学受験がすべてだった。それを目指してあたしは生きていた。だけど、こうして目標を達成してしまった今は、もうあたしには何も残っていない。 もしあたしが死んだら。 そんな考えが脳裏に浮かんだ。 テレビから流れてくるニュースでは自殺者について取り上げられている。 あたしは唾を飲み込んだ。 いじめに遭っているわけではない。特に辛いことがあるわけではない。 だけど、虚無感を見出してしまってから、それでもこの真っ暗な道の中を放浪するように生きる事は苦しかった。 もしあたしが死んだら、誰か悲しんでくれるのかな? 漠然とそんなことを考えていた。学校の友達もお母さんも悲しんで泣いているところなんて想像できなかった。
それでもやっぱり心のどこかで死ぬことは怖くて、あたしは何も考えないようにして日常を送っていた。 学校では出来るだけ目立たないように笑顔絶やさないようにして、みんなから好かれるように過ごして、放課後には疲れて一人で学校の正門を出る。 だけどこのまままっすぐ帰ったらその分お母さんと同じ家の中で時間を過ごさなければならないと思うと、どうしても歩く速度は遅くなる。学校から駅までの徒歩空間はあたしを自由にさせた。 よく時間つぶしに利用したのが、途中にあるコンビニだった。そこで雑誌を立ち読みしたりすることで、あっという間に時間が流れていく。 その日もあたしはコンビニに寄った。その日は雨が降っていて、冬だからもう日は落ちていて、コンビニの白熱灯は眩しく寒々しい道路まで照らしていた。 あたしはコンビニの入り口付近にあるゴミ箱の隣に一つの影を見つけた。帽子を被った女の子がしゃがみ込んでいた。不審に思ったあたしはよく目を凝らして見ると。 「・・・望月アカネ?」 見間違いだったらいいと思った。
あたしが毎日を退屈に苦痛に感じながら生きていた夏、望月アカネは衝撃のデビューを飾っていた。ブラウン管の中で輝く望月アカネはあたしより一学年上なだけだった。 彼女は主に生きることを歌詞にして歌っていた。五オクターブの声域を持つ歌姫は、そんなキャッチコピーのも負けないほどの迫力のある歌声で、世間を魅了していた。 あたしも当然望月アカネを知らないわけではなかったけれど、ちゃんと曲を聴いたことはなかったんだ。世間を騒がしているものに手を出すのはあまり好きじゃなかったからね。 でもその本人がこんなコンビニの前に座り込んで、何をしているんだろう? あたしが名前を呼ぶと、彼女は顔をあげた。化粧をしていないからかな、テレビでみるよりも幼く見えた。あたしと同じ生き物みたいだと思った。 あたしは望月アカネの手元を見る。 「傘、持ってないの?」 あたしが言うと彼女はコクリとうなずく。っていうか、声を出せ。 よく見ると、望月アカネの長い黒髪やら高そうなコートは微かに濡れていた。あたしは学校指定の鞄からハンカチを取り出した。 「濡れたままじゃ、風邪ひくよ。傘もあたしの持っていっていいよ」 ハンカチを彼女の手に押し付けるように渡して、畳んだ傘も彼女の隣にそっと置いた。 「これ使っていいから」 「・・・でも」 やっと望月アカネは声を出した。 「そしたらあなたは濡れるんじゃない?」 テレビで聴くよりも高くて、やっぱり幼い声だった。もっともあたしはあまり望月アカネの地声を知らないけれどね。歌声が印象的過ぎて。 「あたしは、駅まで行けばあとは電車だし、別に大丈夫だから」 あたしが言うと、彼女はあまり興味なさそうにふぅんと呟いた。 このままあたしは帰ってしまおうか少し悩んで、彼女の顔を見た。そしたら、座ったままの彼女はあたしを見上げていた。 大きな瞳でrあたしを見ていた。その瞬間、あたしは金縛りに遭ったかのように動けなくなってしまったんだ。 なんていう眼差しをもっているんだろう、この人は。まるで何かを訴えられているような錯覚を覚える。 「どうしてそんなに親切にしてくれるの?」 望月アカネは視線を逸らさないまま訊いた。 そのときになって、馬鹿みたいだけどあたしはやっとそのときになって気付いたんだ。このひとはあたしと同類だと。 歌手として立派に稼いでいる人を相手にそう思うのは図々しいのかな。でもこの力のある眼差しを向けられたらどうしてもそう思わずにはいられなかった。 「あたしは濡れてもいいから」 気付いたらあたしの口はそう答えていた。 「どうして」 「だって、あたし・・・。あたしね、あまり生きることが好きじゃない。今日も今から電車に乗って帰るけれど、脱線しちゃえばいいのにって思っているんだよ。そしてあたし一人が死んじゃえばいいって、本気で願っているんだよ。傘なんて全然必要ないんだよ」 勝手にあたしがそう喋る。望月アカネ本人にこんな誰にも話したことのない話をしたところで、どうしようもないのに。 望月アカネはそこで初めてあたしから目線を逸らして、少し俯いた。長い睫毛が白い頬に影を作っている。 「・・・わたし」 望月アカネはゆっくりとした口調で言う。 「わたしも、本当はあなたと同じ。でも今は歌を歌うことができるし、守ってくれるひともいるし、生きなければ何も始まらないって思うから、どうにか生きなきゃって思っている。苦しいことあるけれど、そうしないとあたしは歌も歌えなくなるし」 「でもアカネちゃんには歌があるから、幸せだよね」 つい皮肉になるような科白が口から飛び出す。違う、本当はこんなことが言いたいんじゃないのに。 なのに望月アカネは怒ることもなく、ふっと柔らかく笑った。 「どうかな・・・。幸せだけど、生きがいを仕事にしちゃったから、仕事が嫌になったらわたしにはもう何も残らない。でもわたしは、一度絶望を見ちゃったから、もう怖いものはないかなって思おうとしている」 「・・・本当は怖いものはあるくせに?」 「だって認めたら何も出来なくなる」 遠くを見つめて淡々と彼女は話す。 望月アカネの心の深い闇を見た気がした。それはあたしにも理解できないほど暗くて深くて、あたしなんかよりずっと辛いモノを背負っている感じがした。 「どうしてここにいるの?」 あたしが訊くと、望月アカネはまた、笑った。 「レコーディングから逃げてきた。ちょっと揉めちゃって・・・、でももう行かなきゃ。・・・あなたの顔にもそう書いてある」 「守ってくれるひと、いるんでしょ?」 「うん、わたしのマネージャー。わたし親いないから、その代わりっていうのも変だけど、すごく親身になってくれる。・・・これ秘密ね」 あたしは望月アカネの真剣な声に、何度もうなずく。望月アカネはあたしを見て、立ち上がった。あたしより少し背が高いけれど、本当に普通の人だった。もっと人間じゃないひとだと思っていたのに。 「じゃあ、・・・わたし行くね」 「うん」 「傘、返すね。あなたは濡れたら駄目だよ。死んじゃえばいいって。もう二度と思ったら駄目だよ。悲しい人いるよ。わたしはずっと歌うから、あなたは頑張って」 あたしに傘を握らせて、力を秘めた眼差しをあたしに向けて彼女は言う。 「その代わりハンカチもらうね。あなたに会えて嬉しかったから。書きたい詞が見つかったから。いつかあなたのこと書くよ」 そう言って、望月アカネは微笑を残して雨の中走っていってしまった。呼び止める時間さえ与えてくれなかった。 残されたあたしは、しばらくそこから動けなかった。頭の中で望月アカネの声が反芻する。 ―――わたし親いないからという科白。
そのあと駅の近くにあるレコードショップに寄って、あたしは一枚のシングルCDを買って帰った。 家に帰って自分の部屋で袋を開けてみる。ジャケットには長い黒髪を風に泳がせ、楽しそうに笑っている望月アカネが写っていた。 スピーカーから音が溢れてくる。メロディーに乗せた望月アカネの声は、彼女の悲しみを知ったからだろうか、今まで以上に澄んでいるように聴こえた。 深くて澄んでいて、まるで魔法のようにあたしに力を与える。 気付いたら涙が出ていた。彼女自身が書いたという詞は、なぜか同調するように心に染みてしまって、あたしが言いたいことを彼女が代わりに言ってくれているようだった。 なんで生きているのかなんて、理由なんていらない。でも明日が待っているから行かなくちゃ。ちゃんと前を見据えていかなくちゃ。 この歌は彼女の科白と同じ意味だった。 「ごはんよー」 廊下からお母さんの声が聴こえる。 あたしは意を決して立ち上がった。分かってもらえないかもしれない。でも時間がかかってもいい。あたしはお母さんに言いたいことを言えるようになろう。 そして、少しでも心を開いていこう。家でも学校でも。 勇気を持たなければ寂しさは消えない。居場所なんて永遠に見つからない。
望月アカネの眼差しは、いつでもあたしに勇気を与えてくれた。今までも、そしてこれからも。 だけどこれは誰にも言えない、ここだけのハナシね。
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