向こう側


 青空が綺麗だな。


 私は地面に寝転んだまま、青空を流れ行く雲を眺めていた。自分がどこから来て、これからどこへ向かえばいいのかよく思い出せなかった。ううん、考えようとすることを止めていたのかもしれない。
 私は怖いものが嫌いだから。
 でも記憶が曖昧で、自分の名前を思い出すこともままならない。ちゃんと呪文のように唱えなきゃ、頭から離れていきそうでそれがすごく怖い。
 あのひとに名前を呼んで欲しいなって思う。あのひとって誰だったっけ?一瞬胸がドキッとして、彼を思い出す。
 彼に会いたい。会いたい。でもここからどうやって進んでいけば彼に会えるのかな。私は起き上がって周りを見渡す。
 誰もいない、ひとりぼっち。誰かいないのかな。誰でもいいよ、誰か私を見つけてよ!
 私が私じゃなくなってしまいそうで、それも恐怖だった。
 どんどんと記憶のかけらが私の頭から零れていくみたい。私は両手で頭を抱え、どうにか彼のことだけは忘れないように唱える。そして、会いたいってキモチも。


 大切な思い出はどんどん消えていくくせに、余計な記憶ははっきりと残っている。
 オレンジ色の光。私を照らしたモノ。それが何かはわからないけれど、思い出すたびに胸が痛くなって、涙が出そうになる。
 ああ、彼を捜しに行かなくちゃ。たくさんたくさん私に愛をくれたひと。彼も私を待っているはずだ。私を捜している。私が彼を見つけなきゃ駄目なんだ。
 私は立ち上がって走り出した。
 身体が軽い。こんなに軽やかに走れることができるのなら、昔からもっと走っておけばよかったな。こんなに気持ちよくなるなんて知らなかった。
 青空がずっと続いていたと思ったら、急に風景が変わった。
 私は一度足を止めて、周りを見た。人ごみの雑踏で、私はゆっくり歩き出す。誰も私に見向きもしない。人間ってこんなに冷たいものだったんだ。
 一度ひとりぼっちな孤独を感じたからこそ人間の温かみを知る。こんな都会の景色は、私は好きじゃない。何の疑問もなくこんな喧騒の中で暮らしていた自分が信じられない。
 そう思ったとき、ああそういえば私はここに居たのだと思い出す。それなら彼は近くにいる。だって毎日のように私に会ってくれたもの。家が近かったはずだよね。
 彼の名前を叫んでみる。どこにいるの。どこにいるの。今何しているの。私の元に走って来て。抱きしめて。キスをして。愛していると言って。ずっとずっと傍にいてほしいよ。
 私は来たことのあるはずを走った。確かに見覚えのある道なのに、どこをどう曲がっていけばいいのか分からない。
 私はどうしてこんなになってしまったの。息が苦しい。呼吸することも難しい。苦しいよ。そしてこの寂しさはさらに苦しみを増していくようだ。
 カツン、カツン、カツン。アスファルトに響く靴の音。いつの間にか私は狭い路地に立つ古いアパートの前に来てしまったみたいだ。近づいてくる人影に気付き、私は振り返った。
 ―――息が止まるかと思った。
 彼だ。ずっと会いたかった彼だ。私は感激のあまりに口許を抑え、震える声で彼の名前を呼んだ。
 しかし彼は私に気付かないのか、そのまま私を通り越して歩いていく。
 気付かない?そんなはずない。だってこんなに近くにいるんだよ!!
 私は走って必死に彼を呼び、彼の腕を掴もうとしたそのとき。



 失いかけていた記憶をすべて取り戻した。



「送っていけなくてごめんな」
 あの夜、彼のアパートの前でスーツを着た彼は申し訳なさそうに言った。
「仕方ないわ。これから仕事でしょ?頑張ってね」
 真夜中だけど、新聞社で働く彼はこれから出勤だ。寝る間を惜しんででも私に会ってくれるその心はとても嬉しい。
 私は彼の頬にキスをして、彼に手を振って歩き出した。
 徒歩五分で着く私のアパート。その日もいつものように帰って次の日の仕事に備えて眠りに就こうと思っていた。
 消えゆく彼の温もりを離さないように歩きながら、横断歩道の前で一度足を止める。夜中になれば信号は点滅に変わっているので、私は左右を確認して歩き始めた。
 なのに。
 すぐ近くの脇道から急カーブしてきた一台の車。オレンジ色の光。急ブレーキ音。全てが私を襲った。
 身体が動かない。血の匂いを感じた。もう一度あのひとに会っておきたかったな。もっとちゃんと自分の気持ちを伝えればよかった。
 そう思いながら、私の意識は薄れていった。



 あれから私はどうなった?



 彼の腕を掴むことさえ出来ないなんて。
 急に思い出した出来事と自分が何者か知ってしまって、私は絶望を感じた。胸に手を当てても鼓動は聞こえてこない。青い空はもうここにはない。振り向いてはくれないと分かっていても、何度も繰り返し彼の名前を呼ぶ。
 もう駄目だと思ったときだった。彼はふと何かに引きつけられたかのように私のほうを見た。
 悲しそうな目をしていた。そんな表情をさせているのは私のせいなのかな。不謹慎だけど、少し嬉しかった。ねぇ、私を必要だと思っていてくれたんだよね。
 不意に彼が私の名前を呼んだ。私は肩をびくりと震わせた。
「・・・私が分かるの?」
 私は言う。彼は手探りで私の手を見つけ出し、私の手を握った。もう一度私は名前を呼ばれる。
「そうだよ、私だよ。分かるの?私が見えるの?」
「どうしてここにいる?」
 彼の目は少しばかりの恐怖を表していた。怯えている?無理はない。私はもうここにいるべきではない人だ。
「分からない。でもずっとあなたを捜していたの。よかった、会えて・・・」
 私は溢れる涙を拭う。本当によかった。彼に会えなかったら、いずれ自分が誰だったのかも忘れてひたすらこの世界を彷徨うところだった。
「あの日・・・」
 彼は震える声で言う。
「ちゃんと俺が送ればよかった。そしたらおまえ一人を死なせなかったのに」
「そんなこと言ったら駄目だよ」
 私は首を横に振りながら、私の手を握っている彼の手を、もう片方の手で包んだ。
「あなたはちゃんと生きて。幸せになって」
 私は懇願する。
 だって今になって思う。もっと生きたかった。彼の呼吸を感じていたかったし、私も呼吸したかった。死にたくなかったよ。先にはもう何もないけれど、この記憶は私が私であり続ける限り、すっとこの胸に秘めておこう。
「もう行くね」
 私が彼の手を離すと、彼は待って、と言った。
「何・・・?」
 もう彼の目を覗き込んでも、そこに怯えた目はなくて、懐かしむような、慈しむような瞳の色。
「あのさ・・・」
「うん?」
「愛してる」
 本当は私が伝えたかったのに、先を越されてしまったな。私は微笑んで、いつものように彼の頬にキスをした。
 私のことを忘れないでいてくれたら嬉しい。そして、あなたなりの喜びを見つけてね。空の彼方からずっとずっと祈っている。


 向こう側に住むあなたの幸せを。


 
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