行方
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いつの間にか、私の目は彼を追っていた。 またすれ違う。大して広くもないキャンパス内で、ぼんやりと歩いていたら、彼が友達と喋りながらこっちに向かって歩いてきている。 私の存在なんて知らないんだろうな。そう思うと、少し切なくなって、でもなんだか無性に恋しくなる。そんな些細なことで心臓を高鳴らせることの出来る自分が、私は少しだけ好きになれる。 感受性は豊かではない。あまり笑うことも泣くこともしないし、そのせいで家族は私を腫れ物扱いし、友達だって当然出来なかった。私自身、本当は私は人形で、なにかの間違いで命を与えられて呆然と生きているだけなのではないのだろうかと疑ったことがあった。だけど、彼に会って分かった。 私はれっきとした人間で、ちゃんと生きている。
どうしても手に入れたかった。 私がここでこうして生きているという証を、彼に知って欲しくて、最終手段に出た。誕生日、誰も私を祝うことはない。親だって、表情ひとつ変えない私に持て余しているのだ。一人で街に出て、深呼吸をしてカフェに入った。 「いらっしゃいませ」 あ、いた。私はレジにいる彼を見つめた。学校では見せない営業スマイル。だけど、私は学校で友達と喋っているときの笑顔や、授業受けているときの真剣な顔や、何を考えているのか分からないすました顔のほうが好きだと思う。 「キャラメルマキアートのショートサイズをひとつ」 「ホットでよろしかったですか?」 「ううん、アイスで」 「かしこまりました」 慣れた口調で、彼は私に微笑む。私の顔を見て、微笑む。それだけでどんなに嬉しいかきっと彼にはわからない。不覚にも涙が出そうになって、私は俯いて、財布を覗き込んで小銭を捜す振りをした。 そんな感情。今まであんなに嫌いだった自分を、彼がいるから好きになれる。そして、私を変えてくれた彼に、私は恋をする。 たとえ、この恋の行方が分からなくても、私はこの想いを大事にしたいと思う。だから、強行突破だ。 私は彼と寝ることで彼と一日の境界線を越えることに成功した。
その夜から三週間。彼の部屋に訪れるのは二度目だ。 一度きりだと思っていたのに、彼は学校で声をかけてきた。私に気付いても二度と声をかけてくれるなんて思わなくて、顔がほころんだ。そんな自分に驚いた。 意外にも彼は戸惑っていた。だけど、私をそこまで嫌っていないことは一目瞭然だった。 『名前、教えろよ』 あの時、少し顔を赤らめて言った彼を、私は心底好きだと思った。 「何考えてんの?」 彼の部屋から見る景色は格別だ。なんてことない住宅街のアパートで、ただポツリポツリと街灯が遠くで見える。街灯が少ないせいで、月の光が綺麗だっあの夜。今は、その月も新月へと向かい、光が弱くなっているようだった。 「前に来たときと、部屋の感じが違う」 彼の質問に私が正直に答えると、彼は私から目を逸らした。 「あー・・・、少し、片付けたから。前は急だったから汚かったかもしんないけど」 その仕草ひとつ、声ひとつ、全部手放したくないと思う。全て釘付けにされた私を見て、彼は笑った。 「おまえ、何笑ってんの」 「私、笑っていた?」 「うん、最初は笑わない人間なのかって思ったけれど、俺と喋ると笑ってくれるよな」 彼の言うその人は、まるで私じゃないみたいだ。私が笑う? そんな記憶がなくて、私は頬に手を当てた。 「そういうのって、嬉しい」 彼は言う。私は唇の端が上がるのを感じた。きっと今はうまく笑えていない。だけど、彼に何かを伝えたくてひたすら見つめ合う。 私は彼の名前を呼んだ。彼はめずらしそうに私を見る。私から声をかけるなんてあまりないことだからだと分かった。 「何?」 優しく、目を細めて彼は問う。誰にもそんな顔を見せていない。これは私だけの特権だと自惚れてしまいそうだ。だから不安になる。この恋の行方がどこを向いているのか怖くなる。一度きりだと思っていた頃は、そんなことどうでもよかったのに、貪欲な性質まで人間になってしまった。少しでも彼の視線を捕らえると、今度は全てを愛して欲しいと願ってしまうなんて。 微妙な距離感。狭い六畳部屋のなかの、私は部屋の奥にあるベッドに寄りかかるように座り、彼は部屋の入り口のドアの辺りに胡坐をかいている。もっとこっちに来て、傍にいて。そんなこと言えない。目的のためなら手段を選ばなかった私を、純粋な彼が心の底ではどのように思っているのか、考えたくもなかった。 呼んだのはいいけれど黙ったままの私を見て、彼は困ったように表情を変えた。私は一度瞬きをする。 彼は、遠慮しながらも少しずつおずおずと私に近づいてきた。膝で床を滑るように歩く。 「俺さ」 ぽつりと彼が話を切り出す。 「おまえの髪、好きなんだよね。毛先が丸まっている感じ。パーマかけてんの?」 「あ・・・、うん、あとは、朝に巻いたり・・・その日の気分次第で・・・」 「ああ、そっか、だから日によって巻かれ具合が違うんだ?」 なるほど、と彼は笑う。本当はそんな話をしたいわけじゃない、それはお互い様だ。でも、好きだという単語に私は酔いそうになる。 「私の髪、好き?」 「うん」 「触っていいよ?」 「・・・・・・・・・・・・・」 彼は目を瞠るように私を見た。まだ気付いていなかったのだろうか。私はこんな女だというのに。そしたら彼は、ふっと口許に笑みを作って、じゃあ、と私の髪に触れる。髪を伸ばしておいてよかった。単純にそう思う。 彼の指は長くて、私はその手に夢中になった。いつの間にかこんなに近くにいる。だけど、もっと近づいて欲しい。もっと、もっとだ。 するとテレパシーが伝わったように、彼は私の体ごと抱きしめた。最初は大事に優しく包むように、でも次第に力が込められて少しばかり息苦しくなってくる。鼓動が高鳴って、苦しい。 「そんなこと言われたら、勘違いする」 彼の声も苦しそうだった。だから、私も彼の背中に手をまわして、力を込めた。 「・・・・・・勘違い、していいよ」 私はとっくに、彼は自分のものだと思い込んでしまっているから。彼にも私を好きなようにしてほしいと願った。 唇同士が重なって、私は閉じた瞳の中で、以前と何かが違うことを感じた。前は、少なくとも彼には気持ちが入ってなかった。だけど今は。 ―――ねえ、私は少しでも愛されている? 答えるように、彼は唇を離して、微笑んだ。その距離わずか八センチ。行方は分からなくても、今は幸せ、それが全て。
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