たったひとつ


 大切なものを失ってしまった。

 雨の日の信号待ちで、横断歩道の向こう側にはあなたがいて、思わず声をかけそうになってしまった言葉たちを慌てて引っ込めた。
 ねえ元気だった?
 言えなくて、ありえない孤独を感じてしまった。せっかくの偶然というチャンスを台無しにしてしまったな。
 あなたの隣には可愛い女の子。彼女はわたしなんかよりずっと素直で、上手にあなたに甘えることが出来るのかな。そう思うと涙が出ちゃうよ。わたしには出来なかった。いつも空回りばかり、今になってどうして思い出してしまうのかな。
 傘の影からあなたばかり見つめていたけれど、あなたは隣の女の子と話に夢中で気付きそうもないね。
 空は雲で覆われて、更に雨音は増すばかり。切ないよ。寂しいよ。わたしはもうあなたにとって過去形?
 破裂しそうなほどにドキドキする胸を、傘を持っていないほうの手で押さえて、信号が青になった瞬間わたしは足を踏み出した。
 わたしはまだあなたを過去の人だなんて言いたくないよ、言えないよ。
 あなたからもらった言葉を、歌のように思い出してみるけれど、やっぱりそれらは過去のものとしか言えなくて、その言葉でさえもうわたしのものじゃないのかな。あのときのあなたの仕草も表情も、もうわたしの手の届かない場所にあるのかな。
 横断歩道の上で、わたしたちの距離が縮まっていく。今日が雨の日でよかった。傘でわたしのことを気付かれない。早足で歩く。あなたの隣をすれ違うその一瞬。
 わたしの頬が濡れているのは涙なんかのせいじゃないよ。雨のせいだよ。自分にそう言い聞かせながら更に足を早めた。
 気付かれてない?ほっとしているくせに、どこかがっかりしている自分に出会う。何考えているの、もうわたしは過去の人なのに。
 あなたに触れてもいないのに、あなたの隣を感じたたったコンマ一秒で、あなたの温もりを思い出した。
 わたしは大切なものを失ってしまった。もう取り返しがつかないよね。分かっているよ、わたしのワガママも聞いてくれたあなたを本当に好きだったよ。それでも仕方ないよね、うん、分かっている。
 わたしがひとりで空回りしていただけ。
 涙を拭うことも忘れて、傘をぎゅっと握って歩いていると、ふと声が振ってきた。

「冴子、元気だったか?」

 背後からの思いがけないあなたの声に、胸が震えてなおさら涙が溢れた。
 でもとても嬉しかった。わたしは振り返ってぎこちない笑顔を見せたけれど、きっと涙も見られてしまったな。もっと後から涙を流せばよかった。もっともそんなのわたしの意志には関係ないものだけど。

「うん、元気だよ」

 あなたの声が頭から離れない。それを抱くように、わたしはあなたから視線を逸らして前を向いた。
 あなたは必死に笑顔を向けたけれど震えていた唇が見えたよ。それでも声をかけてくれてありがとう。
 たったひとつの、わたしの大切なもの。失ってしまった大切な人。

 
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