あと20000日


 チリン、と風鈴が音を立てた。
「そういえば、斉藤さんのところの娘さん、お嫁に行くらしいわよ」
 淹れ立てのコーヒーをたっぷりと氷の入ったグラスに注いでいく母がつぶやいた。急に熱湯と反応した氷のピチ、という音が夏の風に混ざる。
 今の時代どこにでもある大きな住宅街のなかの一軒家で、風鈴もコーヒーもアンバランスだ。それでも日本の風習を飾りたがるのは母の趣味で、コーヒーを飲みたがるのも母。矛盾しているけれど、それに違和感を覚えない私も感化されている。
「あんたはどうなのよ」
 グラスをお盆に乗せて、母はソファまでスリッパの音を立てて歩く。私がソファにだらしなく座ったままグラスに手を伸ばすと、母はお盆ごと遠のけた。質問に答えるまでお預けってわけか。
「・・・うるさいな、私まだ二十五だよ?」
「お母さんは二十三歳で結婚したのよ」
「時代が違うの、時代が!私は働いているんだし、お母さんと状況も違うよ」
 私は無理やり手を伸ばしてコーヒーを奪った。シロップもミルクも入れずに、まるで麦茶やビールを飲むかのように飲み干すのも私の家の風習なのかもしれない。高い気温にくたびれた身体に補給される冷たいエネルギー。
 何の変哲もない平日の午後。せっかく仕事が休みで、家でのんびりしようと思っても、母はいつもと同じ話題で私をうんざりさせる。母は、私に恋人がいないことを気にしている。一年前に彼氏と別れてそれきりで、それから仕事一筋で生きる私を本気で心配してくれているのは分かる。母は、私に女として幸せになれと言う。
 だけど、幸せの定義なんて人それぞれではないだろうか。私は、今の自分の状況を不幸だとは思わない。それにまだ二十五だ。これから相手に出会ったとしても全然おかしくない。母はアンバランスな趣味を持つわりには、時代錯誤な考えを持っている。


 母からの小言から逃げるように、私はお財布を持って外に出た。本当は一日で最も気温が高い時間ではなく、太陽が沈み始めた夕方に家を出る予定だったけれど仕方がない。日傘をさしたかったけれど、ジーパンにTシャツを着ただけの私にそんな洒落た物が似合うはずがなく、私は目を細めて影さえない道を歩いた。
 仕事が休みの日は、私が料理をする。だから、私が買い出しに近くのスーパーまで行くのだ。こんな習慣がついたのも前の彼氏と別れたときからだったような気がする。前の彼氏には、料理が出来ない女にはうんざりだと捨てられた。
 よくない思い出に嘆息をついて、私はスーパーに入った。途端に強すぎるほどの冷房に身体が悦ぶ。
「あれ?」
 カゴを手にとったとき、正面から顔をのぞかれた。
「おまえ、杜田(もりた)だよな?」
 見覚えもない男に苗字を呼ばれて、彼も目を丸くしているけれど私も驚愕した。
「・・・・・・誰」
「ああ、俺だよ、山下(やました)。中学一緒だったじゃん、覚えてない?」
 にこやかに笑う彼は、ほどよく日に焼けていて、この季節がとても似合うと私はぼんやりと思うけれど、一瞬中学時代のことすら記憶から抜けてしまった。
 そして、コンマ一秒後。
「あ、ごめん、山下くんね!一緒のクラスになったことあったっけね」
「うわー、そのはっきりな物言い、変わらねー、おもしれー」
 人の顔を見て笑う彼は失礼だ。私はむっとして、カゴを持ち直してスーパーの中に入っていった。
「ちょっと、杜田、ごめんって、俺言いすぎた!?」
「あんた、マジで失礼だよ」
「いや、だって、嬉しいじゃん?昔の級友と再会だぞ?」
「別に私はそんなに感慨深くない」
 つぶやきながら私は本日のメニューを考える。奴はなぜか私の後ろを追いかけた。
「へえ、杜田って料理できるんだ?」
「何よ、意外?」
「意外」
 どこまで失礼な男なのだろう。はっきりとした物言いは私ではなく彼のほうだ。私はため息をついた。
「男なんて、料理が出来る女が好きなんでしょ」
「へ?なんでいきなりそんな飛躍するかな」
「だって・・・」
 私は言葉に詰まる。あまり触れたくないことなのに、自分から言ってしまうなんて馬鹿だ。自嘲して、笑ってごまかそうとしたけれど、無駄だったようだ。彼は真剣な顔をして私を見ていた。
「そんなの人それぞれじゃん」
 人それぞれ。それは幸せと同じように。同じように?
「じゃあさ」
 私は低い声で言う。
「山下くんの彼女が結婚をしたいって言うとするでしょ。でも彼女が料理できなかったら嫌でしょ?」
「ってか、俺彼女いないし」
 わざとなのか、論点をずらして彼は笑った。
「本当に好きだったら、そんなの関係ないじゃん。料理できない部分も惚れなきゃ、好きになったとは言えないっしょ」
「・・・・・・・・・・・・」
 私は山下くんの言葉に、今度こそ目を見開いた。それなら私は、本気で好きになってもらえなかった?こんな場所で、不覚にも泣き出しそうだ。
「ちょっと杜田・・・、大丈夫か?」
「え・・・;、あ、うん」
 曖昧に返事をして、私は野菜を見るふりをして彼から顔を逸らす。
「もしかして杜田、妙なトラウマでもある?」
「・・・だったらどうなの」
 ストレートに訊いてくる彼を、そこまで嫌だと思わなかった。誰にも話せなかったことを外に出して、少しだけすっきりしているのも事実なのだ。
「それなら早く忘れればいいじゃん」
「忘れるわけないよ」
「おまえさ・・・、何、結婚したいの?」
「そんなんじゃない」
「じゃあなんでそんなに慌ててんの?」
「・・・慌ててなんか」
「慌ててるじゃん。一般の男好みの?女になろうとしてんじゃん」
「そんな・・・」
 厳しい指摘に私は言葉を失くす。そんなつもりなんてなかったのに。これは向上心、彼にそこまで言われるほど私は悪いことをしていないのに。
「例えばさ」
 山下くんは、言いすぎたとでも思ったのだろうか、少し表情を和らげた。
「人生八十年だとして、俺たちはあと五十五年生きなくちゃなんないの」
「それが何」
「ま、聞きなって。で、まあ二十五歳なんか結婚適齢期なんて言われているかもしれないけど、今結婚したら伴侶と五十五年一緒にいることになるんだよ。五十五年なんて途方もない時間だけど、それって何日か分かるか?」
 何が楽しいのか、得意げに彼は私を見る。私はゆっくりと首を振った。
「約二万日だよ」
 二万日。私は口の中で繰り返す。余計途方もない数字になってしまったではないか。だけど、重みを感じてしまった。
「それだけの日数を一緒に過ごすんだ、今更料理でじたばた言うような奴と一緒にはいられないって、もっと大事なもんってのがあるだろ?」
「・・・それって、何」
 私が小さな声で訪ねると、彼は少し顔を赤くして笑った。「愛ってやつ?」
 ふざけているにもほどがある。と思ったのに、少しだけときめいてしまった自分がいた。


 結局私が献立をゆっくり考えながら買い物している間も山下くんは私の後をついてきて、今日はこれが安いだの、こっちのほうが新鮮だの、いろいろとうるさかった。
「山下くんはスーパーに何しに来たの」
「下見」
「・・・何の?」
「夕方にタイムサービスがあるじゃん?それの下見。今日は何があるかな、とか」
「・・・なんで主婦みたいなことやってんの」
「将来、惚れた女が料理できなくても立派にフォロー出来るようにな。ま、その必要もあまりないかもしんないけど」
「何、それ、どういう意味」
 私の問いに、山下くんは意味ありげに私を見て笑った。どこまでも失礼な男だ。
 だけど、あと二万日、私は何を思って過ごすのか分からないけれど、残りの時間を大切に生きよう。帰ったらまた母の小言を聞かされるかもしれないけれど、適当にスルーしながらも大切にしてあげよう。
 私は母を思いながら、カゴの中の野菜の隣に、この夏に飲み尽くすであろうアイスコーヒー豆を置いた。



少しでもよかったと思われた方はポチっとお願いします。励みになります。
(NEWVEL様より)







 
Copyright 2005- パンプキン All Rights Reserved.
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送