まぼろしの14日間


 カーテンの隙間から、青い空を見つめた。
「まだ雨はあがらないのか」
 背後から声がかかり、私は振り向きもしないままうなずいた。
「ええ」
 さんさんと太陽が輝くその天気にうんざりしながら、今度は視線を落とす。私がこのマンションに滞在してからもう二週間になる。一度も外に出ていない。いい加減にノイローゼになりそうだ。
 レンガ造りの立ち並ぶこの町は、普段はとても綺麗な景色が広がっているはずなのに、今では騒音と赤いランプばかりが目立っている。でも見覚えのある車はどこにもない。パトカーはパトカーでも、プライベートポリスのものだ。
「俺、今から仕事にいくけれど、帰りに何か買ってくるものはあるか?」
 この部屋の住人のジェイクが私に聞いた。少し考えて、
「高級なステーキが食べたいわ」
 と言うと、彼は顔をしかめた。
「居候のくせにいい態度だな」
「冗談よ」
 私が軽く笑うと、彼は手を振った。
「傘を忘れちゃいけないな」
 嫌味ったらしく言いながら、でも傘を持つこともせずに彼はドアの向こう側に消えた。
 彼がいなくなったのを確認し、私はコートのポケットから拳銃を取り出して、あと何発打てるか数えた。毎日の同じ行為。数は変わらない。あと二発分の弾しか残っていない。
 顔でも洗おうと思い、洗面所に向かった。鏡には白けた顔の私がいた。赤い髪の毛が私の顔の青白さを引き立てている気がした。でもジェイクは私の赤毛を褒めてくれた。


 私がジェイクに拾われたのは二週間前だ。雨が降った薄暗い一日だった。
 仕事に失敗して、とある大企業のプライベートポリスに囲まれて、路地の影で身動きも取れなかった私をジェイクは匿ってくれた。
「おまえは何者なの?」
 全身濡れた私にタオルを寄越して、ジェイクは訊いた。
「・・・レイナ」
 名前を答えると、彼は噴出したように笑い、俺はジェイクだと名乗った。もちろん私はジェイクの質問の意図を分かっていたけれどはぐらかしただけだ。ジェイクはそれ以上、私が何者なのかを訊くことはなかった。
 ジェイクは二十歳くらいで、短い金色の髪が似合う少年だった。もしかしたらまだハタチにもなっていないのかもしれない。タオルで髪を拭きながら彼をじっと観察していると、碧眼が私を見た。
「とりあえずさ、そのままじゃ風邪ひくからシャワー浴びてきたら? 服は・・・男物しかないけれど」
「・・・私をここに置いてくれるの?」
「そのつもりで連れてきたけれど? おまえはこのポリスの中に帰れると?」
 何もなかったようにジェイクがあっけらかんと笑うから、私は眉根を寄せた。
「・・・帰れないわ。でも、もし見つかった場合、あなたにも火の粉が降りかかるのよ?」
「上等だ」
 ジェイクが私を見据える。
「絶対に逃げ切れるさ」


 私をこの部屋に置くということは、それ相応の関係を求められるのかと思った。それでも仕方ないと思った。ポリスに捕まるくらいなら、好きでもない男に、それでも私を拾ってくれたことに感謝をして抱かれることくらい、なんてことない。そんな覚悟を持たないとこんな仕事はやっていられなかった。
 私は諜報員、言い換えればスパイだ。とある大企業のスパイ行為に失敗し、追われている。捕まればまずは拷問だろう。私が所属する組織について吐かせようと彼らは必死になるだろう。いつ捕まってもいいように、私は奥歯に毒入りカプセルを詰め込んで仕事をしていた。口を割る前にカプセルを噛み切って自分の命に換えてでも、全ての証拠を消滅するように指示されている。今度こそ私の人生は終わりだと思った。
 そんな私を助けてくれたジェイクは、私に触れることもなかった。ソファを貸してくれて、安眠の場所をくれた。昼間、彼が留守のときにご飯を作って待っていれば、喜んでくれた。そんな生活をし続けて二週間。
 私は不思議な感情に捕らわれていた。
「ただいま、レイナ」
 キッチンにジェイクが顔をだした。午後七時。
「おかえりなさい」
「あー、いい匂いだ。今日の夕食は何?」
「ビーフシチュー。この前ジェイクが買ってきてくれた牛肉がまだ残っていたから」
「ありがとう」
 ジェイクの笑顔を見ると、胸が締め付けられる。時には仕事のために人を殺してきたこの手が、誰かのためにご飯を作っているなんて、昔の私が見たらなんと思うだろう。
 物心ついた頃から私は裏社会にいた。両親はいたけれど、愛してもらった覚えはない。十二歳の頃、両親が揃って死んだ。それから私は教育され、十五の頃からこうして働いている。身を置いているのだし、それなりに守ってもらったこともあった組織は、まったくと言っていいほど家庭的な場所ではなく、とても機械的だった。私たちはみんな道具のように、そして何の感慨もなく死んでいくのだ。私の両親のように。
 そんな場所にいたからか、こんな普通の場所にいると、胸が震える。
「どうかした?」
 鍋の前でボーっと突っ立っている私の顔をジェイクが覗き込む。端正な顔立ちが少し歪められていることまで、全てが間近に見えて、私は顔を赤くした。
「・・・なんでもないわ。もうすぐ出来るから、座ってて」
 絶対に逃げ切れるとジェイクは言った。でももう二週間。まだパトカーは周辺をうろついている。いくら二週間前よりも数が減ったからと言って、状況は変わらない。
 出来れば使いたくない銃の弾数は二発。逃げ切れない。私は奥歯に仕込んだ毒入りカプセルを噛み切れないでいる。
「レイナ」
 まだキッチンにいたジェイクが、私の肩を抱き寄せた。私は驚いてジェイクを見上げる。こうして並ぶと、身長差がよく分かる。ますます鼓動が高まって、胸が苦しい。私はこんな感情を知らない。
「大丈夫か」
 訊かれて、ただうなずくことしか出来なかった。


 二週間前に知り合ったばかりで、一緒に暮らしているのに私はジェイクのことを何も知らないことに気づいた。年齢も、仕事も、どんな家族がいてどのように育ってきたのか、それさえも。
 ジェイクは仕事の関係上、家にいることは不定期で、一緒に夜ご飯を食べるのは三日ぶりだった。ジェイクが美味しそうにビーフシチューを食べている姿を見ると、何も知らないことに泣きたくなる。
「レイナは食べないのか?」
 上目遣いで見つめられて、あわててスプーンを握った。
 ああ、でも彼だって私のことを何も知らないんだから、同じなんだわ。考え直して、シチューをすすった。
「・・・外はまだ雨が降っていたの?」
 深い意味で訊ねると、ジェイクは顔をしかめた。
「ああ・・・」
「もう二週間になるわ。本当にごめんなさい」
「どうして謝るんだ? 俺はレイナがいてくれて嬉しいよ。仕事から帰って来てご飯を出してくれる。最高だ」
「私はあなたの家政婦じゃないのよ」
 冗談のように言うと、ジェイクは微笑んだ。
「でも、レイナがいてくれて嬉しいのは本当だ」
 そう言い切って、ジェイクはご馳走様とつぶやいて席を立った。
 私のような仕事をしていると、思ったことを素直に言えない性格になる。そして、人の言葉を聞いても裏の裏を読んでしまう習性が身に付く。悲しい性だ。だけど、ジェイクの言葉だけは信じたいと思う自分がいた。何があってもジェイクは私を裏切らない。彼のことなんて何も知らないくせに、すがりたかった。
 普通の人と関われたことがこんなに嬉しいなんて思わなかった。私の心にやすらぎをくれる人間が存在するなんて、夢物語だと思っていた。
 夜の十二時。シャワーを浴びて本を読んでいたジェイクは私におやすみとつぶやいて、ベッドルームに入っていった。それを何食わぬ顔で見送り、私は洗面所にいく。昼間に全て調べた。洗面台の下にヘアカラーが置いてあるのを見つけていた。
 長い髪も切りたいところだけど、髪一本でもDNA鑑定にかけられる。危険だ。私はジェイクを地獄の底に突き落とすつもりはない。メンズ物だったけれど、ヘアカラーを勝手に拝借することにした。私の赤毛が消えていく。ジェイクと同じ金髪に染まる。ジェイクの本当の髪は何色なんだろう。そんなことも知らない。本当はもっとゆっくり話したかった。知りたかった。こんな出会いじゃなければ。
 時間を置いて、シャワーを浴びるふりをしてカラーを落とす。鏡に映った私は、まるで別人だった。これなら大丈夫。ジェイクが寝ている間に部屋を出て、マンションの廊下で朝まで過ごし、出勤で混雑する人々に混じって私も素通りすればいい。いざとなったら毒入りカプセルもある。大丈夫。
 仕事をしていてこんなに動揺したのは初めてだった。でもどこかでワクワクする私がいる。どこかで私は、裏社会から解放されたかったのかもしれない。明日に光が見えると本気で信じた。
 髪を乾かして、着てきたGパンを履いた。上着はさすがに捕まった日と同じではまずいので、ジェイクのサイズが大きめのコートを借りる。
 ジェイクの寝室に通じるドアを見つめた。二週間を思った。こんなに私の胸を締め付ける存在に出逢えるのはもう最後だと思った。これからのことを思うと、本当は不安で不安で仕方がない。ずっとジェイクに守ってもらいたい。生暖かい涙が一筋、私の頬を流れた。
「さようなら、ジェイク」
 小さくつぶやいて、靴紐を確認して、玄関のドアに手をかけた。

「―――レイナ」

 後ろから声がかかって、びくりと肩を震わせた。まさかこの私が、その気配に気づかなかったなんて!
「どこに行くんだ、レイナ?」
「・・・・・・・・・・・・」
 唐突のジェイクの登場に、私は言葉も出ない。
「まだ雨は上がっていないぞ」
「あ、あなたに・・・、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないの」
 暗がりの中で私の声が小さく響いた。
 ジェイクに私の金髪は見えているのだろうか。見ないで欲しい。こんなに汚れた私を見ないで。私はジェイクと同じ髪色になる資格なんてなかった。ごめんなさい。日が経つたびに恐怖を覚えた。私が何者であるかを告白する気にもなれなかった。軽蔑されるのが怖い。こんなに普通の世界で、幸せに生きている人に。
 両手で顔を覆うように身を震わせていると、ふと背中から温もりが伝わった。ジェイクが私を抱きしめていた。
「ジェイク・・・?」
「死ぬつもりなのか」
 温もりとは反対にジェイクの放つ言葉は冷たい。でもどうして怒っているのか、私は考えられなかった。こんな風に誰かの体温を感じたことなんてなかった。両親でさえも私を抱きしめてくれなかったから。
「・・・ジェイクは知らないのよ」
「逃げ切れるって言ったはずだ」
「あなたは何も知らないからそんなことを言えるのよ!」
 私は無理やりジェイクの腕の中から逃げて、振り返ってジェイクを睨んだ。暗闇の中でもジェイクの瞳は碧く光っていた。ぞっと背筋に寒気が走る。
 私は何かを勘違いしていたのかもしれない。
「何も知らないのはおまえだろう?」
 ジェイクが薄く笑った。
「俺がどうにかしてやるよ」
 口調が違う。私を見下ろすその視線も、私が知っているジェイクのものじゃない。冷たい汗を手の平ごとぎゅっと握り締めて、私は震える唇を開いた。
「・・・あなたは、何者なの」
「ジェイクだ」
 彼は冗談のように答えたけれど、私は笑えなかった。そのままジェイクの顔が近づいてきて、唇をふさがれた。一瞬何が起こったのか分からずに、生温かいその感触に目を見開いた。
「や、やめてよっ!」
 ジェイクの頬を殴りつける。パチンという音が響いた。ジェイクは頬を押さえて、私を見つめた。本気で恐ろしいとはこのことかもしれない。私はなんという家に転がり込んでいたのだろう。
「・・・初めてなわけないだろ?」
 ジェイクが嘲笑するように言う。頬がかぁっと赤くなった。
「この歳で初めてで悪かったわね!」
 咄嗟に持っていた拳銃をジェイクに投げつけた。イテ、と緊張感のない声が聞こえた。馬鹿なのは私だ。分かっている。覚悟だってあったはずなのに、涙が止まらない。
「私はスパイよ。仕事で失敗して追われている。だからもう出て行こうとしたのに」
 壁に伝ってずるずると座り込んでしまった。力が出ない。緊張して張り詰めていた糸が切れてしまったようだ。ジェイクは電気をつけた。まぶしくてお互い目を細める。ジェイクがじっと私を見ていた。
「赤毛がなくなっているじゃないか・・・」
「勝手にヘアカラーを使ったのは謝るわ。でも」
「俺は暗殺者だ」
 私が言い終わらないうちに、ジェイクがはっきりと言った。聞き間違えだと思った。でも鼓膜のなかでジェイクの言葉が反芻する。暗殺者・・・?
「レイナのことは知っていたよ。組織の中でも捜索手配が出ていたから。諜報のプリンセス、赤毛のレイナ。ずっと知っていた」
 私の前に座り込んで、ジェイクは真面目な顔で話し始めた。
「レイナが失敗した企業のほうは、まだ手ごわくて。でも俺が片付けるから、もう少し待っていてもらえるか・・・?」
「・・・私と同じ組織?」
 混乱する頭で訊ねると、ジェイクは微笑んだ。私の知っている笑顔で、胸を撫で下ろす。その様子を見たのか、ジェイクは申し訳なさそうに頭を下げた。
「キスしてごめん」
「・・・別に、私だって殴っちゃったし」
「レイナのことを知ってからずっと会いたかったんだ。だから会えて幸せだった。何も知らないで、ご飯を作ってくれたり、俺の帰りを待っていてくれたり、幻のようだったよ。何も言わなくてごめんな」
 ジェイクが私の金髪に触れて、そのまま頭を撫でた。私は首を横に振った。謝らないで欲しい。幸せだったのは私も同じだ。幻を見ていたのは私のほうだった。涙が止まらない。でも今度は悲しいからではない。何故だか分からない涙が存在することも、人の温かさも、すべて教えてくれた。私はジェイクに出会えてよかった。きっかけは不謹慎だとしても。
「・・・私は組織に処罰されるのよね」
「いや、大丈夫だ」
 ジェイクが言い切った。
「実が俺、割と上のほうに顔が利くから色々聞いたんだ。まだレイナを匿っていることは言っていないし、ばれたらさすがにやばいだろうけれど、それでも例えば俺が今日見つけたって言えば、レイナは復帰できるよ。そういう体制も出来ている」
 信じられない夢物語はここにもあった。復帰が出来る。それは私にとってかけがえのない話でもあった。
 どんなに普通に憧れていても、結局私は裏社会でしか生きていけない。解放されるなんてそれこそ幻だ。生きる実感がまるで沸かなくて、死んだほうが楽だと思っていたこの二週間。でもまた働けるというのなら。
 嬉しくて肩が震える私を見て、ジェイクは可笑しそうに笑い、私に拳銃を返した。
「じゃあ、つじつま合わせの計画を立てなくちゃな」
 少年のようにいたずらっぽく言うジェイクを見つめて、やっぱり胸のどきどきがおさまらない。唇に残る感触も名残惜しく感じる。
 何も知らない私がこの感情に気づくのは、きっともっと後のことになるだろう。今はまぼろしの日々の最後に触れ合い、そして自分らしく生きられる場所に帰ることに必死なのだ。
 二人で計画を立てながら、この部屋を出て行くときにあやふやなこの想いをジェイクに伝えたいとぼんやりと考えた。


 
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