10000メートル向こう


 多分、私は逃げたかったんだと思う。喧騒のこの街から、世界から、現実から。
 本当は一人で行きたかったのに、彼が難しい顔してついて来ると言って聞かなかった。仕方なく、私は車に乗って彼を助手席に乗せ、遠くまで走った。街を忘れさせてくれる場所に行きたかった。そこは何の変哲もない海辺で、私は子供のようにミュールを投げ出して砂の上を走った。彼は呆れ顔をしながらも、長い足で私の後をゆっくりと追ってくる。
 波が寄せては引いていく。その瞬間に私も吸い込まれそうになる。人間なんかじゃ太刀打ちできないほどの海の力。私のような小さな人間は、意識しなくてもきっと連れていってくれるはずだった。
「どうしたんだ?」
 取り憑かれたように海を眺めていた私に、彼は後ろから静かに訊いた。
「なんでもない」
 さすがに心中を明かせなくて、私は曖昧に笑う。
 逃げたかった。全てが嫌になっていた。彼のことは好きだけれど・・・、私には何かが欠けている。その満たない部分はいつしか私を闇へと誘い、もう取り返しのつかないほどの大きな穴を作ってしまった。もう私の目には、美しい光も、感動による涙も、激しいほどの愛も何も映らない。心は空虚だ。
 波が寄せるたびに、砂は押され、私の裸足の指の間に砂が入り込んだ。このまま立ち尽くし続けたら、いつか私はこの砂に埋もれてしまうのだろうか。
 それもいいかもしれない。でも、じわじわと苦しいのは嫌だと私は考えを訂正する。どうせ死ぬのなら、私は海に連れ去られたい。
 このまま一万メートルほど進んでも、まだ空と海は交わることがない。ただ永遠に海が続いていくようだった。
 彼が私の名前を呼んだ。今更だけど、私は怖くて振り返ることが出来なかった。私は、こんなに愛をもらっているのに。恩を仇で返すような仕打ちを平気でしていた。
 彼はもう一度呼ぶ。私は恐る恐る振り返った。そこには、夕日に照らされた彼の、優しくて、悲しい表情があった。どこか泣きそうに見えた。
「どこに行く気だ?」
 鋭い彼は言う。本当はもう気付かれているのかもしれない。そう思ったとき、もう怖いものはないと思い正直に言った。
「一万メートル向こう側」
 私が答えると、彼はますます表情を曇らせた。夕日のオレンジ色がさらにそれを引き出していて、私も泣きそうになっていた。彼がこんな顔をしているのは私のせいなのに。
「それなら」
 彼は波の音に負けじと声をあげる。
「同じ一万メートル歩くなら、こっちにおいで」
 手を差し伸べて、必死に彼は言う。私はその手を見つめた。大きな手。長い指。何度も私の頭を撫でてくれた。抱きしめてくれた。それでも、私はその手に触れることは出来ない。
「だって・・・、そっちに行けば、街に戻っちゃうよ」
「じゃあ、どうするつもりなんだ?」
 彼からの質問に、私は口をつぐむ。涙が出た。
「私は逃げたいの」
「・・・俺がいるのに?」
「・・・・・・・・・・・・」
 大好きな人の存在なんかでは賄いきれないほどの悲しみがここにあるのだと、どうすれば伝わるだろう。それでも彼のことを好きだと想うのは、とても勝手なことだけれど、両方とも私の心を支配しているのだ。
「海の向こう側の夕日も綺麗だけれど、こっちにも君に見せたいものがあるよ」
 そう言って彼は私の手を取った。私は彼について、震える足をゆっくりと前へ進めた。私が行きたかった方向とは逆の方向に。
「ほら、見て」
 砂浜を出て、車を停めてあるアスファルトまで歩いたとき、彼は指を指した。私はその方角の空を見た。
 海とは逆に東側であるその方向の空はもう真っ暗で、街のネオンがぼんやりと光っていた。濁って見えるのは人々の心が病んでいるからなのか、それとも環境の悪化がそうさせているのか。私には空が泣いているように見えた。
「向こう側だって、綺麗だろ?」
 私は彼の手を握ったまま、その空を見ていた。真っ暗な空の中にひっそりと灯る光があるのなら、人の心の闇にもそのような救いが存在するのだろうか。冷静を取り戻した私は、横にいる彼を見た。
「戻ろうか」
 私の頬にキスをして、彼は私から車のキーを受け取る。私は放心したまま、ただ彼に体重を預けた。涙が溢れて止まらない。
 一万メートルの景色は、小さな灯りを私にもたらした。彼の存在が一点の光になればいいと思った。私の悲しみもゆっくりと癒せると本気で信じた。
 彼はいつものように私の頭を撫でたあと、そっと抱きしめた。壊れ物のように大切に、大切に。その扱われ方がさらに私を泣かせた。なんて贅沢な悩みを抱えていたのだろうと思う。それでもきっと、これからも私は闇に狂い、海を思う日があるだろう。
 だけど、これからはちゃんと思い出したい。街の中に潜んだ、一万メートルの景色と空を。



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