溢れそうなほどの



 この国を壊したいと彼は言う。
 きっと彼には大切なものなんてごくわずかしかなくて、わたしはその中には入っていないことがわかった。でもそれでもいいの。



 隣でのっそりと起き上がる気配が分かった。あ、布の擦れる音。わたしはこの音が好きだ。寂しさと一緒に訪れる幸福感に酔いたくて、わたしは横向きに寝ていつも寝たふりを続ける。
 いつもとは言っても、晋助がわたしに会いに来てくれるのは一ヶ月に一度か二度のこと。その夜はわたしを狂わす。そこに愛がないと分かっていても、わたしは寝たふりを続けて、晋助の帰る支度すら耳に残して余韻を残す。

 晋助が頭上でわたしの名を刻んだ。その形のよい唇からわたしの名前がつむがれたことがとても幸せだ。
 わたしは決して楽観的な人間でもない。どうしようもない絶望感に見舞われて、一度わたしは生きるということを投げ出そうとしたことがあった。別に死にたいと思ったわけではない。ただこれからのことを思うと、果てしなく長い時間に押しつぶされそうになった。そんなわたしを晋助は拾ってくれた。抱いてくれた。温めてくれた。わたしは晋助のために生きたいって、心からそう思ったんだよ。
 それを言葉にするのはひどく滑稽に思うから、わたしは何も言わないけれど。
 攘夷志士なのも知っている。幕府に追われている身だということも。それでも愛しているって言ったら、晋助は何て言うかな。歪んだ顔で笑うかもしれない。ありえないと、わたしのことなんて好意すら抱いていないかもしれない。分かっているよ。でもわたしはそんなことを恐れているのではない。
 わたしが怖いのは、その温もりを手離すということ。
「俺、もう行くから」
 わたしの頭をひと撫でして、晋助は立ち上がった。あ・・・遠ざかる。行かないで。まだここに居て、わたしを抱きしめて眠ろうよ。・・・そんなこと言えない。
 わたしは晋助の恋人じゃないから。晋助にとってわたしはなんだろう。少しは大切って思ってくれているかな。晋助がこの世界を壊すとき、わたしをどこに行かせてくれるだろう。世界が滅びるときはわたしを殺してね。そう言ったとき、晋助はうなずいてくれた。とても嬉しかった。込み上げてくる感情。わたしを生かしたことに対する憎しみ。それでも愛しているって思うの。
 耳を部屋全体に傾けていた。晋助が帰ったらわたしは泣こう。そして眠りに就こう。溢れそうなほどの感情を抱きながら泣けば、きっと明日にはすっきりする。しばらく晋助に会えなくても大丈夫。
 だから早く出て行ってよ。先ほどとは真逆なことを思うのに、晋助の動く気配を感じない。わたしは呼吸するのも緊張して、そのまま寝たふりを続けた。やばいって思った。このままじゃ気付かれる。気付かれる。・・・気付かれてしまうよ。
 ガサリ。あ、今度は布団が擦れる音だ。晋助が布団に膝をついて、そしてその気配が近くなってしまった。息が震える。そう思ったとき。
 キスをされた。唇じゃなくて、耳に。
「ちょ・・・・・・・・!」
 思わずわたしが目をばっちり見開くと、晋助と視線が絡まった。なんて愉快そうに歪んだ笑顔!
「いい加減寝たふりはやめろよ」
「・・・だって」
 続きが言えなくて、わたしは布団を口許まで被せて言葉を濁らせた。言えるわけないでしょう。行かないでって言えなくて、それが苦しかったことに今頃気付いて、涙でにじんだ。
 温もりを手離すことは確かに怖い。だけど、やっぱりわたしも人並みに恋をしたいんだよ。愛したいし、愛されたいんだよ晋助。いろんな言葉が頭をよぎって、わたしはすすり声をあげた。・・・ダメだ。こんなんじゃわたしは捨てられてしまう。
 すると、晋助はわたしの横に転がった。
「仕方ねーなァ・・・」
 まるでわたしをあやす様に、その手のひらがわたしの頭を撫でた。
 わたしは晋助が好き。視線だけで人を殺めそうな鋭い視線も、派手な着物も、色っぽい声も、わたしに触れるときだけ別人のように動く手のひらも、全部。
「晋助・・・」
 泣いてかすれた声でわたしが呼ぶと、晋助はわたしの顔を覗き込んだ。
「何だ?」
「世界を壊すとき、わたしを殺してくれるって約束だよね・・・?」
 わたしが問うと、晋助は少し考えたようだった。不安になる。晋助はきっと、壊したらもうここには戻ってこない。成功したら、違う場所に行ってしまう。わたしはもう一人では生きられないのに。
 晋助は軽く嘆息をしてから、つぶやいた。
「いや、もう殺せねーなァ・・・」
「どうして」
「惚れた女をこの手で殺す趣味は俺にはないんでね」
 さらりと返された言葉。
 ・・・聞き間違えたのかと思った。
 でも聞き返せない。
「本当?」
 やっとの思いでそれだけを聞き返すと、晋助はわたしの頬に唇を落とした。くすぐったくて、わたしはぎゅっと目を閉じた。
 本当の幸福がやって来た夜。溢れそうなほどの愛情を抱いて、わたしたちはこれからどこへ向かってゆくだろう。それでも晋助がいれば、わたしは怖くない。






 
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