ムーン・ライト
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気付いたときには暗闇の中で佇んでいた。土の香り。とても懐かしくて、は目を細めた。
香りは記憶に直結する。
ここがどこだかすぐに分かってしまった。
自分は確かに二十歳で、江戸のことを知っているのに。
すぐ目の前には、遠い記憶の奥底に眠っていたはずの実家が建っていて。
「しばらくそこで頭を冷やせ、馬鹿野郎!」
わずかに残る頭の痛み。父親の罵声。また殴られたんだ。頭を押さえながら、逃げるように庭に駆け出した。
江戸を思った。どうしてあたしはここにいるのだろう。だけど、そこまで深く疑問を持ち続けることはしない。この矛盾を特に気にしない。
実家は江戸から近くもなければ遠すぎる場所でもない、中途半端に田舎で、無駄に家や庭が大きい。なのに開放感なんてなくて、いつも縛られているような感覚があった。
十三歳くらいから江戸に憧れていた。そして十九歳のころ、両親の目を盗んで、最低限の荷物を持って江戸に飛び出した。
だけど、現実は情景とはあまりにもかけ離れた世界だった。
どうして、この土の香りを感じているのだろう。今。
黒い空に白い月が浮かんでいた。江戸では見られないほど綺麗な光。その存在すら忘れていた。太陽がなければ光ることも許されない、儚い存在。
その光は、何かに似ていた。
月が泣いているように見えるといったのは誰だったか。
記憶を探るけれど、思い出せない。でも確かにその光は儚くて、滲むようにいびつな形を発しているようにも見える。
泣いているんだ。誰にも気付かれないところできっと。
地球からは見えない月の裏側。それと同じように、誰にも踏み込まれない心のずっと奥の暗闇の中で、大切な人が泣いているんだと思った。
だけどここは江戸じゃなくて、駆け出したくても足が上手く動かない。逃げ出したいのに、見つかったときの恐怖ばかりを思い出す。
助けて。
月に懇願する。
自分が助けてあげなくちゃいけないって思えば思うほど、息が出来なくなるくらい胸の中が苦しくて。
ただ会いたいと思う。
月と同じ光を持つ、大事な、大事な。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
そして次に見たのは、銀色の髪の毛。
自分のすぐ隣にあることに気付いて、 は安堵のため息を漏らし、その寝息を掻き消さないようにそっと触れた。
そんな二人の姿を、月の光は照らしていた。
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